「垢抜け」と「野暮」 2
恥も外聞もなく働きづめた都会一世ほど野暮ったくはないかも知れないのですが・・・
都会型のくらしの便利さと快適さに寄生し、あるがままに、『たれ流して』生きているのでは、お世辞にも垢抜けしているとはいいがたいでしょう。
この点では、農村本来の豊かさに気づかず、『中央』をあてにして、地元への利益誘導にやっきとなっている農村の『田舎者』と変らないのです。
『アーバン-ルーラル』を『垢抜け-野暮』と転釈する意図は、都市型のくらしの普及にともなうライフ・スタイルのあり方を問題にするところにあります。
野暮とは、昔風にいえば、もともと遊里の事情に暗いこと、粋でないこと、もてないことでした。
転じて、それは、世間の実情や微妙な人間関係にうといこと、また目立たぬところまで行届いた配慮や工夫を行う洗練さに欠けていることを意味しています。
『ドーベルマン訴訟』でいがみ合う『都会』人も、本音(『生活の要請』)丸出しで刑事被告人に票を入れつづける『田舎』人も、この野暮ったさの点では共通しています。
これは英語では『ルーラル』というより『ラスティック』というのが適切かも知れないのです。